昭和20年、長く続いた戦争が終わり、徴兵から戻った平田富久が、戦後復興により需要が高まり始めていた材木を取り扱う。
材木商から、スレート製造へ
昭和23年1月、復興が進むにつれて、セメント系建材が注目される中、平田製材所から厚形スレート製造会社の千代田建材株式会社を四日市市住吉町に立ち上げる。現社名の一部にも含まれている“チヨダ”の由来は、富久の生家が三重郡八郷村千代田であることから命名された。
スレート製造から、石膏ボード製造へ
昭和28年、厚形スレートが次第に石綿スレートに替わっていった頃、まだ世の中では出始めだった燃えない建材で、材料に副産物を使用する石膏ボードと出会う。関係各社の協力を得て、昭和30年、三重郡川越村高松に高松工場(現在の四日市工場)を稼働させる。
創業者 平田富久
昭和34年9月、高松工場の生産が軌道に乗り始め、関東地域の進出を考えていた矢先、東海地方に伊勢湾台風が直撃し、伊勢湾岸地域に高潮が押し寄せ工場が全滅状態となった。
この時、多くの得意先、仕入れ先、業界関係者、同業者からのあたたかい励ましの言葉を頂き、もう一度工場の再建を決意。台風が襲来してから7か月後の昭和35年4月、高松工場を再建する。
伊勢湾台風時の様子
昭和34年9月、高松工場の生産が軌道に乗り始め、関東地域の進出を考えていた矢先、東海地方に伊勢湾台風が直撃し、伊勢湾岸地域に高潮が押し寄せ工場が全滅状態となった。
この時、多くの得意先、仕入れ先、業界関係者、同業者からのあたたかい励ましの言葉を頂き、もう一度工場の再建を決意。台風が襲来してから7か月後の昭和35年4月、高松工場を再建する。
昭和40年、高品質且つ、低コストな石膏ボードを製造する為、アメリカの生産方式を導入した厚木工場を建設。
昭和44年、建築基準法が一部改正され、建築物の内装制限が強化されたのに伴い、石膏ボードが“不燃材料”として初めて公式に認定され、急速に需要が高まる。旺盛な需要に対応する為、昭和45年、関西地域の生産拠点として貝塚工場を建設。
昭和60年代に入り、バブル経済を背景とした高層ビルや超高層ビル、大型商業施設の建築ラッシュにより、乾式工法の耐火・遮音間仕切壁の需要が拡大。石膏ボード市場が急速に成長するのに伴い、昭和61年、千葉県袖ケ浦市に当時としては最新鋭のコンピューター制御を活用した千葉工場を建設。関東の製造拠点を厚木から移設する。
当時の千葉工場
平成2年、石膏ボードを含めた総合建築資材メーカーに生まれ変わるイメージを内外に印象づける為、Unique Technologyの頭文字UTEとチヨダを組み合わせたチヨダウーテに社名を変更する。グループ会社として、石膏ボード以外の関連資材を扱う東京総合資材㈱、鋼製下地材料を製造・販売するチヨダメタルスタッド㈱、内装工事請負業の東京アークシステム㈱を設立し、事業の拡大と組織の活性化を進める。
社名変更と併せて、平成2年10月、店頭登録銘柄として社団法人日本証券業協会に登録。株式を公開する。
平成11年、旧アドラグループ3社から石膏ボード事業を譲り受け、北海道、九州エリアに進出。全国展開をスタートさせる。
平成16年、北海道室蘭市に、従来の大規模集中生産方式による大量生産から小規模分散生産方式による適量生産となる室蘭工場を建設。
本社・四日市工場からの風景
平成18年、世界有数の石膏ボードメーカーである独・KNAUF社と資本業務提携を開始。新技術の導入や、世界中で幅広く支持される建材の日本市場導入を進め、日本の住宅・建築業界に新たな価値を提案。
平成22年、山王セラミックス㈱から、けい酸カルシウム板及び各種スレートの製造事業を継承しチヨダセラ㈱を設立。総合建築材料メーカーとして取扱製品の幅を広げる。
平成23年、㈱トクヤマと㈱トクヤマ・チヨダジプサムを設立。世界で初めて、廃石膏を原材料として100%使用可能とする石膏の再結晶化技術を確立させる。
平成28年、70周年という節目を迎えるにあたり、東京支社を蔵前に移転し、顧客向けサービス強化をするとともに企業価値向上に向けたブランディング活動を開始。
平成29年、コーナーボードが、公益財団法人デザイン振興会が主催する2017年度グッドデザイン賞を受賞。現場の手間削減と、Rコーナーによる住宅や施設の安全性確保ができるとして評価を受ける。
令和4年、独・KNAUF社の子会社化。